生後80日で父を失う。交通事故だった。
7人家族は一家離散。母(29才)と兄(4才)、赤ん坊だった私が残された
会社事務員だった母親は懸命に働き、子供たちを育てた。
保育園の行き帰り、母親は、「少年老い易く 学成り難し」と暗誦させ、「勉強しなさい」が口癖だった。
生後80日で父を失う。交通事故だった。
7人家族は一家離散。母(29才)と兄(4才)、赤ん坊だった私が残された
会社事務員だった母親は懸命に働き、子供たちを育てた。
保育園の行き帰り、母親は、「少年老い易く 学成り難し」と暗誦させ、「勉強しなさい」が口癖だった。
繁栄する繊維のまち・児島。2Kの長屋+共同風呂の社宅。
瀬戸内の海を見つめ、ミシンを踏む音や時を告げる工場のサイレンを聞きながら育った。
屋根に寝ころび対岸を眺め、仙随山の向こうに広がる空に吸い込まれるように感じた毎日。
地域の人は皆知り合い。よく声を掛け合い、助け合い、分かち合った。
父親喪失の悲しみは、児島の人々の愛情とモノづくりの活気の中で癒された。
18才。あしなが奨学金で東京へ。
あしなが学生寮は4人部屋。厳しい独自の寮生カリキュラムが課せられた。
学生募金では、朝から晩まで街頭に立つ。あしながおじさんからの手紙に涙する。
のんびり少年が、しなやかな強さを身に着けた。
学生時代に休学してブラジルへ。アマゾン河口の街で修行をした。
官僚を目指し猛勉強も挫折。ビジネスマンとなる。
バブル崩壊を目の当たりにする。国や商品を変え様々な商売の現場に立った。最先端で格闘した。
言葉も文化も違う中で学んだのは、「誠実」であること。
商品を売るのではなく、自分自身を選んでもらうのが、世界に通用するビジネスの要諦であることを知った。
結婚し、子どもに恵まれた。亡くなった父の年齢も超えた。
故郷児島に帰省するたびに、ゆっくりと静かになっていくまちを見つめた。
最後の赴任地となったアメリカでは、「日本は既に相手にされていない」と痛感した。
高齢化が進み、人口が減少する国には、市場の魅力も脅威もないのだ。
一極集中の国・日本。地方が疲弊している。
ふるさとへの思いが募った。
日本にもどり、地域を元気にするため頑張っている人たちに加わりたい、と考えた。
やめておけ、と囁くもう一人の自分がいた。家族もいる、今の立場を捨てることはない、と。
悩んだ。
そんな時、ふるさとで土石流発生との報が届いた。
裏山を切り開いて作られた建築残土の捨て場が台風で崩壊、幼少期を過ごした家や遊び場だった田畑を飲み込んだのだ。
人の被害がなかったのはどちらも廃屋と耕作放棄地になっていたから。
誰かが自分を呼んでいる気がした。
静かに決意は固まった。
無謀だと誰もが笑った。
32年間の空白に半年間の活動期間。 懐かしのふるさとで、あなたは誰?と向き合った。
限られた時間、全力で戦った。
結果は敗北。 わずかな差だが大きな開き。
新しい舞台に立つにはまだ早い。 天が静かに首を振った気がした。
心は折れなかった。
郷土に根を張り新しい下積みを始めた。
ふたたび故郷にたたずむ。
瀬戸内の優しい波。仙随・瑜伽に続く里山。学生服・ジーンズ・ユニフォーム・畳縁などの繊維産業は、昭和の日本を支えた。下津井の圧倒的な歴史と情緒ある街並み。
交通と商業の要としての倉敷・玉島の歴史。早くから稲作や綿作に取り組んだ倉敷の土地の強さ。果樹栽培の船穂。グローバル経済につながる近代臨海工業地帯・水島。真備・庄の歴史と里山。若いまち茶屋町。
倉敷の人々が紡いだ伝統と技術がある。
郷土を誇り、可能性を信じて、誠実・真摯に取り組む。
あしだ泰宏の原点は、そこにある。